YOSOもの、WAKAもの、BAKAもの。

千回以上聞いたフレーズ

この業界に長年いると「よそもの、わかもの、ばかもの」というフレーズを、千回以上は耳にした記憶があります。
いやちょっと、その前に…、マチザイノオトって、リノベーションとか、空間デザインとかがテーマじゃないの?と思われるかもしれませんが、私たちにとって場づくりとは、まちに貢献する活動です。町の年齢が上がり、放置された空き家がいよいよ手の付けようがないレベルにまで達してきた状況を眺めていると、ふとこのフレーズを思い出したので、いつもとは毛色が違う内容を投稿しました。

このフレーズに込められた意味とは、田舎社会において、変化を良しとせず、年功序列を守り、出る杭は打たれる、そんな窮屈な状況を打破するためには、これら3人の役割が必要であるということです。ちなみに、この言葉を最初に言い出した人は不明でありますが、まちづくりの現場のあるシーンにおいて、様々な要素が交錯しながら自然偶発的に生まれた言葉なのだと思います。以降、100匹目のサル現象と相まって、広く全国に広がっていったのだと思います。

その場、その地域の事情によって、「よそもの、わかもの、ばかもの」の順番が変わることもあり、それらの解釈が変わることがよくあります。これがまさにバズワードの魅力ですし、正解を求めるべきではないという理解でおります。たまに、名刺の裏とかに、このフレーズが書かれていたりすると、良い意味で、好意的な気持ちたっぷりにクスっとなります。かつて私も名刺の表に堂々と書いていた時代がありましたから(笑)。

とにかくこのフレーズ、日本のまちづくりにおいて、非常に素晴らしい発明だと思います。

何が優れているのか

そもそも「まちづくり」という言葉自体がバズワードみたいなものなのに、それに輪をかけて「よそもの、わかもの、ばかもの」が必要だというテーゼをバズワードにしてしまったのです。それから20年以上経っても、これを超える万人受けするまちづくりテーゼは登場していないと思います。

もうこれは「文化」化したと言っても良いでしょう。そう思う理由の1つに、世代を越えて知られている点です。富山県内のあちこちの地域で、場をつくりながら、小さな商いを持ち、まちづくりに貢献するという若い人たちがここ数年で急激に増えてきたと感じていますが、そういう人たちから「よそもの、わかもの、ばかもの」というフレーズを聞くことが珍しくありません。中には最近登場した新しい言葉として理解している人もいます。若い人たちから聞きたときも同じく、クスっとなります(笑)。もちろん好意的に、です。

今や、ネット上にも、これらに対する事を書いた記事を沢山見つけることができます。かつての20代の頃の私は、自分が関わっている世界観に若干の恥ずかしさを感じていたものです。同世代の知人や友人は、商業の世界でクリエイティブな仕事していて、彼らの仕事が商品化され、TVなどで宣伝され、雑誌に紹介されたりしている一方で、政府や自治体をクライアントとするまちづくりの仕事をしていました。仕事の成果は報告書という分厚い書物となり、クリエイティブな仕事をしたという自覚を持つことができませんでした。

そんな時代、飲み会で友人たちに披露したこのフレーズが、意外にもデザインの現場で働く友人たちの心に刺さったようで、「それ、うちの会社でも事情は一緒で、共感できるわー。」などと言ってもらった事を覚えています。

この時代に必要な3つの観点

前置きが長くなりましたが、間違ってもふわっとしたまちづくり論を語るつもりはなく、事業拠点をローカルにシフトして、ゼロからやり直して今ここ富山の地にいる、まちの定点観測者だからこそ理解できる「よそもの、わかもの、ばかもの」論、ぜひ聞いてください。

まず「この時代」が、どんな時代なのか?からです。地方で暮らして、地方の仕事ばかりをしていると、どんどん町の経済力が落ちていると感じます。かつてのように地場産業という基盤が弱くなり、もしくは無くなり、どんな商売であっても儲けの幅が極端に狭いです。減価償却費を十分に確保できる商売がどれだけあるでしょうか?

金融機関は不良債権と投資の含み損を抱えているため、超安全な優良企業とビジネスモデルの実績が沢山あるフランチャイズのような商売にしか融資してくれないのではないでしょうか。お金を借りて商売の基盤つくるという考え方が成り立たなくなっています。いわゆる装置産業であっても、商品をつくるための仕入れが出来なかったり、機械の入れ替えができなかったりする工場があると聞きます。

今、昭和のビジネスは完全に終わり、平成のビジネスはメッキが剥げてきたという印象を持っています。何と言いますか、資本の考え方が変わりつつある感じがします。その時代の資本の適切なあり方は、人々が何を幸せと感じるかとリンクしていると思いますが、今はちょうどお金から脱しようしている最中にあって、でもしかしお金がかかる時代です。社会全体として大きくなってしまったコストがお荷物になって、何をやろうにも気軽にスタートできない時代です。地方でもそうなのです。

昭和に生まれたこのフレーズを、当時のまんまの意味で受け取ってしまっては、それこそ定義がハッキリしないバズワードで終わってしまいます。世の中の人々が大変な時代を生きてきて、幸せの基準が変わりつつあるなか、このフレーズの登場人物たちに求める観点も変わってきて当然だと思います。

以上を踏まえて、冒頭の図をご覧ください。これは平成のビジネスから脱したいという思いを込めた、令和の時代の「よそもの、わかもの、ばかもの」の図です。よそものを「YOSO」、わかものを「WAKA」、ばかものを「BAKA」と表記してあります。3者はそれぞれ別の3つの観点に置き換えています。例えば「わかもの」を単に年齢が若い人として捉えてしまうと、バズワードの持つ自由度がなくなってしまいます。ですから、私としては「わかもの」を「若さ」という観点に変換してみたいと思います。同じように、あとの2者もそれぞれ「よそもの」を「他所から」、「ばかもの」を「非常識な」(これはちょっと強引?)という観点に変換してみます。

以降は、それぞれ3つの観点ごとに思うことを書きます。

YOSO=他所から、でもどこに居ても良い

まちづくりの文脈において、移住者などの「よそもの」への期待は高まりつつあります。「地域おこし協力隊」はその表れの1つでしょう。しかしよく考えてみてください。その町が好きになって、他県から、都会から移住した人たちが、町にずっと住んでいる人よりも優れている点はどこでしょうか?「わかもの=ファッションセンスがいい」や「高齢者=貯金が沢山ある」のような間違った方程式だと思いませんか?

大事な観点は、他所からの、つまり当地、当事者から離れた場所からの見方です。他所から見える客観的な視点だったり、先入観のない新鮮さだったり。移住定住しなくても、たまに来てくれるだけでも良いのです。たまにしか来ないからこそ良い場合があるのです。求められるのは、住み続けて鈍化してしまった感度を高めてくれる、曇ったメガネでは発見できない価値を見つけて教えてくれる人。そうした役割を担ってくれることです。

さっきの間違った方程式のように、他所から来た人の視点がすべて優れているわけではないはずです。言ってしまえば「SENSE(センス)」です。他所からの視点があれば誰でも何でも良いというわけではなく、人並み以上の特定のいい感性を持った人。例えば、普段から職業として扱っている専門のテーマがあったり、得意分野であるマーケット事情をよく知っていたりする人です。まちづくりに貢献してくれる人というのは、そのようなセンスを持った人が、他所からの見方をしたときにまちを変えてくれるクリエイティブな方程式が成り立つのだと思います。

他には、全国あちこちを旅して美味しい発酵料理を食べ歩いている人や、古い町並みを歩いて撮影した写真をSNSにアップしている人、全国のローカル鉄道に乗るのが趣味の人など。ユーザーや旅行者としてある特定のものを沢山体験しているような人は、町や地域ごとの小さな違いや特徴を発見できたりするものです。なので、富山県に住んでいながら全国や海外の事をよく知っている人でも同じ役割を担えると思います。しかし、ここに生まれ育っていないという人(富山的には旅の人)が持つ切れ味には勝てないかもしれません。

WAKA=若さ、それは年齢だけじゃない

もちろん、若い世代の人口が少ない町に明るい未来はありません。確かにそうですが、未来に向けて、次の世代にいい形でバトンタッチするために、今まさに動き出そうとする町において、今若者が少ないからという理由で何か問題があるってことはないと思います。なぜ少ないのかを考えるところからはじめるべきで、言いたい事も言えない、やりたい事も出来ない町に若者が来るでしょうか?チャレンジできるまちの雰囲気づくりや、障壁になっている古い風習を壊そうとする動きがないままに、若者がやってくるだけでは逆効果のような気がします。

なので、あらためて「WAKA」は若さであり、若い人ではありません。若い世代の話を聞いてみよう、彼らの価値観を理解しよう、彼らの代弁者になろうという気持ちを持っている事が若さです。もちろん若い人に対する間違った理解もするでしょうが、つまりは取組み姿勢の問題です。紐づけられた欲張りな条件は「ACTION(アクション)」です。いくら年齢が若いからと言って、単に消費者としてサービスを享受するだけでは物足りず、できれば生産サイドとして行動してもらいたいのです。

若さのラベルには、怖いもの知らずであるとか、失敗を恐れないであるとか、そうした言葉が似合います。年齢が若い人が情熱的に(生産サイドとして)行動することが理想ですが、なかなかそのようなレアなケースを期待しても、世界は前に進みません。しかし世の中の風向きにより、年齢が若い人がのびのびと軽やかに動き出せない時代にあるため、少々の先輩の経験者がモデルをつくっていく必要があるように感じます。若い人の気持ちが分かる、分かろうとする人たちが行動することが、とっても大事なタイミングなのではないかと。

2023年現在の年齢で言うのであれば、30代後半から50代前半くらいに期待します。昭和のバブル経済を社会人として経験したかどうかは大きいという意味を込めて、以降の元気のない日本を背景に社会人デビューし、人もお金も縮小していく時代においてもなお「大きく、強く、高く」なることを強いられた世代が、ひと回り下の20代前半から30代前半の世代の理解者になる意義はデカいと思います。そして、行動し、手本を見せてあげて欲しいです。

BAKA=非常識な、分かる人だけの遊び

最後は「BAKA」についてですが、これがもっともレアなケースであり、実現性が低いかもしれません。歴史ある町には、いわゆる旦那さんの文化があります。代々受け継いだ資産と商売があり、社会的な信用があり、人脈も広い。本来であれば子供や孫の世代へ引き継いだものをリレーするために、時代にあった変革は必要であれ、基本的には保守的な生き方を求められる事が多いでしょう。でもしかし、この人たちこそが地域を変える破壊力があり、そういう人たちだからこそ非常識な仕業を仕掛けてほしいのです。

そこに紐づく条件は「MONEY(お金)」です。資金力や信用力がある人がやるべき事は、銀行では理解できないような新しい価値を生む事業、まだ確立されていないビジネスモデルの実験的な事業に投資することです。10年で元を取ることは不可能であっても、30年や50年後に、もしかするとご本人は亡くなっているかもしれない時代になって、広く社会のインフラとして機能したり、最初のモデルケースとして歴史に刻まれたり、そういうロマンを分かる人たちだけで楽しむという、周りからは非常識に見える「遊び」をすることです。

ちなみにですが、私の周りにも非常識に見える「遊び」をやりたい人がいますが、だいたいその取り巻きにいる常識的な人(会社の幹部など)に抑止されてしまうのです(笑)。「殿!ご乱心を!!」とか言われて、旦那さんのロマンを実行に移せないケースもあるのでしょうね。

A/B/Cごと、それぞれの戦略がある

図中の「SENSE」「ACTION」「MONEY」それぞれを結んだ線に、A、B、Cと書いてあります。これは、まちづくりを戦略的に進めたいという主体者が、現在どの位置にいて、どういう手順で誰を巻き込みながら進めて行くべきかと考えるためのロードマップづくりに役立つものです。こちら、いつになるかわかりませんが、次回の記事で説明しようと思います。


明石 博之

[組織] グリーンノートレーベル(株)
[役職] 代表取締役
[職業]場ヅクル・プロデューサー

1971年広島県尾道市(旧因島市)生まれ。多摩美術大学でプロダクトデザインを学ぶ。大学を卒業後、まちづくりコンサル会社に入社。全国各地を飛び回るうちに自らがローカルプレイヤーになることに憧れ、2010年に妻の故郷である富山県へ移住。漁師町で出会った古民家をカフェにリノベした経験をキッカケに秘密基地的な「場」をつくるおもしろさに目覚める。その後〈マチザイノオト〉プロジェクトを立ち上げ、まちの価値を拡大する「場」のプロデュース・空間デザインを仕事の軸として、富山のまちづくりに取り組んでいる。

■ 関連記事